私は、竹細工の魅力に取り憑かれ、この道でいずれ生きていこうと思い道を歩み始めた時、生活できるようになるまでの腰掛けのつもりで始めたのが宅配の仕事でした。その理由としては、他の仕事と比べ時給が少し良いので、切り詰めればなんとか竹細工の修行と両立できると思ったからです。
初めはそんな軽い気持ちで始めた宅配でしたが、とてつもなく大変な仕事だということが直ぐに分かりました。その一つ一つあげれば切りがないのですが、根本的な問題を挙げるとすれば、全ての皺寄せが配達するドライバーに来るという事でした。これは少し時給が高いというのは、全く勘定に合いレベルなのです。特に悲惨なのが、配達に問題が起きた時です。それの処理の為に他の配達ができないので、ただでさえ荷量が多いのに、残数が重くのし掛かり気ばかりあせり空回りし始めます。また私は、アルバイトだったので、末席の末席なので、様々な理由で私に荷物が流れてきました。勿論、私には流せる人はいません。今までやってきた仕事とは人も内容も全く違うので、心底驚いてしましました。
しかし、同じ職場でも非ドライバー人は、天国の世界の人の様に見えました。非難する訳ではないのですが、明らかに仕事量が違うからです。例えば、私が時間に追われながらの必死の配達から戻ってきたとしても、非ドライバーの皆様はのんびりとやっているからです。仮に皮肉混じりに、そんな人達に何か言ったとしても、嫌なら辞めればいいじゃないという一言で片付けられそうな、そのような感じでした。その背景としてあるのが、宅配ドライバーの離職率の高さです。実際、私も一日で辞める人は何人も見てきました。それはなんの変哲もない日常的な光景で、仕事を辞めるという重さが全く感じられない世界なのです。昨今は運送業の人手不足が顕著なので、業務がドライバーに集中するという事が改善されてきているとは言え、依然として骨の折れる仕事であることには変わりません。私は運送業は基本的に砦の中にいる人と、砦の外にいる人に分けられていると思います。ドライバーは砦の外の人にあたり、例え社員待遇で入社したとしても、ガレー船の漕ぎ手のように、足りなくなったら補充するだけの存在なのです。
それ故に、私は、そしてそういう人々に見送られるのがあまり好きではありませんでした。見送る側はいつも安堵の表情を浮かべてこちらを見ているからです。私は何度見送る側の方になりたかったことか。この出発する時が、正に天国と地獄の境目なのです。私はいつも地獄の方でした。
では、このようなある種差別的な仕事に得はあるのでしょうか。私が辞めなかった理由をここで少し書きたいと思います。第一には竹細工を続けたかったということですが、他にもありました。
それは数年後、あることに気がついたからです。ベテランドライバーの中に、神々しく光を放射するような人が、数は少ないですが、ちらほらいることをです。それを表現するのは難しいですが、単に歳をとって柔和になったという事ではなく、仕事も早いし、人間も良く、何というか綺麗に角がとれて玉のようなのです。
配達先のお客様の中にも、ごくごく僅かですが、このような方がいます。当然、配達は必ず一回で終わり、嫌味なく礼を言ってくれたりするのですが、決定的に他の人と所作が違います。体から滲み出てくる何かが違うのです。私は、そのような人に会うと同志のような気持ちを抱きます。瞬間的に意図を理解し合えるからです。
私が宅配ドライバーを続けてきた理由は、このような珍しい人に出会える事にあります。この汚れた世界の中においても、数は少ないですが、綺麗な玉のような心を持つ人がいるのです。私は今までの人生で、そのような神々しい人に出会った事がなかったので、荷物に連れられて訪問した先で、そのような方々に出会えるのが、不思議であり、なぜだかとても嬉しいし癒されるのです。
聖書に登場する最も価値のある物は、金や銀ではなく、意外にも真珠です。私は、これは主の目に叶う霊の象徴ではないかと考えています。天然の綺麗な丸い真珠は滅多にないし、真珠自体の成長も遅いのです。
そして、この真珠とは、私が見てきた玉のような心を持つ人々の事ではないかと思います。主はその真珠がどこで取れるのかを知っているし、一粒一粒、祝福を持って拾い集めてくださるのです。
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