蘇る竹林


本物の信仰を持つ真のクリスチャンとは

私は教会に通った事のない自称クリスチャンです。しかし、神から祝福を受けその後ヨハネの黙示録を解くことができました。今はまさに終末の時代と言える世ですが今後どのように生きればよいのか、真のクリスチャンとはどうあるべきかについて、私の考えを書きたいと思います。

まず初めに知るべきことは、今後どのような時代が来るかです。聖書には人類がいまだかつて経験した事のない大きな艱難が来ると書かれています。それは主が新しき素晴らしものを打ち立てる為に天と地と人の大掃除をするという意味に他なりません。主権はこの世界の全てを創造した主にあります。しかし主は来たる新しい時代の礎石となる人々も予めその種を地に蒔いて愛を持って育ててきました。その種がイスラエルであり、その成長した者達がイスラエルの残りの者、即ち144000人です。

私は、クリスチャンを自称する人は皆この144000人を目指すべきであると考えています。それはあなた自身が神となり主と共に歩む者になるからです。

また黙示録によればこの144000人は、イスラエルの子達にのみその権利があることになっていますが、それは少し違うと思います。なぜなら、それはパウロがローマ人への手紙の中で書いている事ですが、主はイスラエル人を転ばせる事で異邦人の席を作ったとあるからです。黙示録に書かれている事は主の巻き物に書かれた元々の計画であると思います。故に自分の血筋を調べる必要もなければ気にする必要もないわけです。主は良く育った麦を見落とすようはヘマは絶対にしないからです。

このように144000人の選びは異邦人にまで及びましたが、当然主を知らない人も大勢います。しかし主は信仰の義という方法を通し主の律法によらない選びをパウロに示しました。それはイエス・キリストを信じる事で得られる義の事です。しかしこれは奥義になっておりはっきりと分からないようになっています。パウロはこれをイエス・キリストに繋がった人々の秘密という言葉で表現しています。これについて私の経験を踏まえ書きたいと思います。

まず私の思う答えはこれです。即ち、信仰の義とは貴方に内在する主の戒めの度数を主が測るもので、それが主の定める基準に達している場合、ある特殊な肉体的現象を通してそれを貴方自身に知らせるというものです。ここの主の戒めの度数とは、十戒がどれくらい貴方の心に刻まれているかの指標のことです。なぜこのように言えるのかを示したと思います。

まずパウロの言う律法が不要になったという意味を考えます。これを単に律法が不要になったと解釈するのは間違いだと思います。なぜなら十戒は主からモーセに直接与えられ石板に刻まれ契約の箱に入れられ至聖所に安置されていたからです。つまり主に等しい存在であります。また主イエスも天地が滅びるまでは律法の一点一画も滅びないと言っています。よってパウロの文言は、パウロ自身がヘブル書でも言及しているエレミヤの預言である律法を心に書きつけるという事に沿わせて考えると、律法がなくても律法があるように人々が振る舞える状態と定義することができます。つまり、誰もが主の律法を心に持ち行動に移せれば世の律法は不要になるという意味です。しかしこの定義の最大の問題点は、その状態になったか否かを誰が判断するのかということです。

実は私が初めてイエス・キリストを信じた時、ほぼ同時に実に不思議な体験をしました。その現象を言葉にするのは少々難しいのですがこのような感じでした。何かが突然上から落ちてきてスッと体に入り込み、内臓が持ち上がるような感覚がうまれ、それは暫く(1日位)続いたのですが、何が何だか分からず戸惑うようなそんなものでした。故にはっきりと記憶に残る現象だったのですが、それに最も近いと思える体験が水に沈んだときの息苦しさのような感覚です。今振り返るとこの現象は第一コリント12:13に書かれている事ではないかと思います。(因みに神からの祝福はその後何年も経ってからの事でした)

パウロの言う証印とはこのことではないかと思います。つまりイエス・キリストを信じると主によって内在する戒めの度数が測られ、主の定める基準に達していれば上述の現象が当人に起こるというものです。つまり自身に証印が押された否かは、肉体的現象を通してはっきりと認識できるものであるということです。

よって私の思う信仰の義の本質とは主によって測られるということです。それは誰に対してもイエス・キリストを信じた時から始まり不要になるまで続き、達したら証印を押されるものであると思います。黙示録にも神殿と祭壇を測りそこに礼拝しているものを数えよとあります。

私は、真のクリスチャンとはこの主の戒の精神とイエス・キリストへの信仰と共に歩んで行くべき者であると考えます。そしてパウロはアブラハムはこの信仰の義により証印を受けたと言っていますので、主がアブラハムに言った主の道とは、主の戒を守り歩んで行く道であることもわかります。今はサタンの世ですが、信仰故にサタンの会堂につかず落ちぶれたとしても誇ってもいいわけです。主は常に貴方を見ているからです。そして主はサタンの義を使い信仰者鍛え、サタンは主の義を使いサタンを増殖させているということも知るべきです。聖書には麦と毒麦を同時に成長させる事が書かれています。このように主は愛するものを愛ゆえに懲らしめます。多くの信仰者に義を与えたい為です。黙示録には144000人とは生ける神のような人とあります。それを間違わぬように。

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