蘇る竹林


真神仏習合

実家には仏壇と神棚があります。改築前のその部屋は薄暗く不気味でした。そして天皇陛下の写真と共に亡くなった祖父達の写真が並べられ、また兵隊の備品や動かなくなった振り子時計が柱につけられていて、子供心に怖かったのを覚えています。当時の仏壇と仏具は古く見すぼらしものでしたが、何重にも重なった歴史を感じさせるものでした。祖母は毎朝欠かさず神棚と仏壇に炊き上がったご飯をまずお供えし、家族全員に参れと促し、我々は否応なしに仏壇の前に正座させられ祖母がお経を読む間手を合わせじっと聞き、それが終わると神棚に向かって手を叩きお参りさせられました。大正生まれの祖母からすればそれは当たり前の儀式だったと思います。戦前の日本は全国そのような風景があったと思われますが、戦後は大きく変わりました。戦中の苦しさの反動からか人々は金を拝むようになり、神を捨て始めました。

戦後の日本の発展は他国が羨むばかりのものですが、それとは裏腹に、多くの人々は人生の迷子になってしまいました。かくいう私もその一人で特に大学受験が一番の躓きでした。世間では良い大学に行って良い会社に行くというのが最良の人生であるという価値観が蔓延している状態でしたので、親もそれを良しとし、そういうレールに無理やり私を乗せようとしました。しかし、私は自分が進みたいと思う道とは違っていたので、大いに反発しました。そしてその反発から私は人生とは何かを若いうちから探し求めるようになりました。そして、根本的な問題である人はなぜ生きるのかという問いの答えをどうしても知りたいと思いはじめ、それがいつしか私の人生の基底に据えられていきました。

紆余曲折後、私は聖書に辿り着き聖書を一人で学ぶ中で以前何度も挫折した仏教が思い出されました。聖書の解釈は色々とありますが、私は大まかにはこのように全体像を解釈しています。神は自身を形どって人間をつくり、未熟な霊をその中に入れて神の律法を学ばせ、そしてよく学べた霊を選んで神の国を建設しうれしうれしの世を作るというものです。決して万人救済論ではありません。聖書ではこの真ん中の神の律法を学ばせるという部分が根幹を成し、釈迦が説いた教えとほぼ同一ではないかと思いました。いやむしろ仏教の方がより幾多のキリスト教会の解釈よりも聖書の教えに近いとさえ思っています。その証拠の一つが日本人そのものです。もし仏教の教えが神の律法と大きくかけ離れていたのなら、このような礼儀正しい国民性と謙遜を美徳とする国が生まれるとは到底思えないからです。日本にキリスト教が広がらない理由はここにあると思います。つまりキリスト教の教えは日本の仏教的伝統を上回れないからです。日本は宣教師の墓場と言われていたそうですがそれもうなずけます。そして過去には神と仏は神仏習合していた事実もあり両者は非常に近い関係にあると言えます。私は思います。日本人は実は知らず知らずのうちに聖書で説かれた神の律法を学んでいたのではないかと。多くの日本人は自分が何教徒かを言えません。これが宗教家からの嘲笑の対象になっていたりしますが、それが間違いである事を述べておきます。なぜならその状態は実は聖書のいう信仰の完成形だからです。しかし、これだけでは神の救いの網にかからないのです。

人類の創生から始まり長い年月を経て、時代は今聖書の後半部分にきています。つまり神の収穫の時代です。この時、聖書を知らない日本人は自身のルーツを知り架空のものではない本物の救いがあるということを知る必要があります。仏教の教えは確かに圧倒的にキリスト教の教えに勝利しましたが、キリスト教の中に実は本物の救いがあることを知るべきです。これを知らないと極楽浄土にはいけず地獄行きとなります。聖書が言うそれはイエス・キリストを信じるということです。これは神が人間に示した罪を償える唯一の条件だからです。そして神の慈悲を受けた者はエデンの園即ち極楽浄土に入ることができます。たとえ人の目にはどんなに素晴らしい人であっても、イエス・キリストを信じていなかったら神の目からは未信者となります。仏教徒の方々には以前の私のようにキリスト教を毛嫌いしている人もいるかと思いますが、このイエス・キリストを信じるというのは矛盾に聞こえるかもしれませんがキリスト教を信じるということではありません。聖書はイエス・キリストを証しした書であり神の霊をもって書かれた書です。この聖書の言葉を信じるという意味です。そしてイエス・キリストとは架空の人物ではないのです。日本との関係はとても深く、主が以前私に示して下さいましたところによれば、イエス・キリストはかつて応神天皇であったということです。そしてきたる新しい世界を統べる王でもあります。このようなことは勿論どの歴史書にも書かれていません。確たる証拠も現在ありませんが、主が示して下されたことに間違いはありません。我々が教えられてきた歴史は根本的に嘘であるということです。そして日本人は古代イスラエルの末裔だということにもなります。

今、聖書に記された終末期の預言が長い年月を経て次々と成就し始めています。そして信じられないような主の恵みも用意されています。多くの日本人はその対象となっているのですが、いにしえの時代イスラエルの民は主に大罪を犯した為、散らされ盲目にされてしまいました。その延長線上にいるのが当に現在の日本人です。しかし主が日本人を見捨てたわけではありません。その一つが仏教を隠れ蓑にした主の律法の実践的な教えではないかと思います。それは聖徳太子をはじめ幾多の賢者を通して、主により広められたと思います。しかし今、その役目は終わろうとしています。日本人はこの事を知り主に返る時がきました。目に貼り付けられた鱗を取り去る時です。

実は主はその返り方も示して下さっています。それが神仏習合ではないかと私は考えています。しかし以前のそれは型でした。そして祖母が仏壇と神棚にお参りしていたのも型だと思います。なぜなら主は事を成す時その始めに型を出すからです。私は日本人が主に返るにはこの型に沿って真の神仏習合を成せばよいのではないかと思います。それは主の道と仏の道を合わせ一本道にするというものです。基本的には接木という考え方になると思いますが、それは仏教の教えの部分だけを残しそれを主の道に接木するというものです。つまり仏教で培った教えと誇りはそのまま腹の中に納め、そして主なる神イエス・キリストを拝するというものです。主の道とは特別何かが必要な訳ではありません。人目につかないところでただ主を拝し、聖書を頼りに真理の道を歩むというものです。そして主が一番求めていることは回心です。いにしえの罪はまだ消えていません。

私は若かりし頃人生の基底に据えた、人はなぜ生きるのかという問いに対して答えを得ています。それは聖書の行間に書かれていました。今は本当に晴々とした気持ちです。そして仏教でよく用いられる苦というものも実は神によって人間の成長を促すために作られているものであることも知っています。そしてそれを取り去ることができるのも神だけなのです。先に述べた主の恵みとはヨハネの黙示録に書かれている十四万四千人の事ですが、それは苦を乗り越え地上の星となった方々のものです。

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