蘇る竹林


蘇る竹林

今からおおよそ百年前、日本では民藝運動なるものが起こりました。

これは、柳 宗悦を中心とした、名もなき物作り作家達の掘り起こし運動の事です。かなり大きな運動となったと記録されており、彼が設立した日本民芸協会は、一応今でも存在しています。しかし今日、民藝が世に溢れているとはお世辞にも言えない状況です。

彼らが目指したのは、またその動機は何だったのでしょうか。この事を深く考えた時、私が出した結論はこうです。彼らは市井の中に、無料の芸術を置く事ではなかったのかと。つまり、それは例えば中世ヨーロッパのような風景の事です。一握りの有名人ではなく、一人一人の名もなき作り手の力により、美しき世界を築き上げるということではなかったのでしょうか。私はこのような世界にとても憧れを持っています。

しかるに、第二次対戦後、世界は資本家によって大きく変えられました。日本も、否応なしに資本主義への道を歩まされました。これにより多くの人が金を拝むようになり、日本の各都市はまるでバビロンのようになりました。そして、残念ながら「結局、金だろ」と言われれば、何も言えない世界へと転落したのです。これは私にとって、実に吐き気のする世界です。

資本主義という社会システムは、誰でも努力すれば金持ちになれるという、機会の平等を生みましたが、結果はどうでしょうか。実に醜い社会となりました。金を多く稼げる人が最も優秀であるとの価値観になり、そういう人々が社会の上位に立つことで、金という偶像を拝む世界へと変貌を遂げたのです。

私は、お金を否定しているわけではありません。豊かになることは、決して悪い事ではないからです。

このような時代にあって、民藝について語ることは実に虚しい事です。なぜなら、資本主義的な価値観では、民藝など、大して金にならないつまらない投資対象でしかないからです。反面、多くの金持ちは、高額美術品を税金対策として購入していることはよく知られた事実です。単なる資産の保存先としての美術品です。

また、安い民藝品を、薄利多売目的で東南アジアから大量に輸入し、売り捌く人もいます。これを民藝運動とはいいません。

金に世の中が支配されることで、何か大事なものを失ってしまいました。このような世界が好きな者にとっては楽園となりましたが、そうでない者には地獄と化しました。

では、今のような世界に生きたくない人はどうすればいいのでしょうか。私は、中世ヨーロッパにヒントがあると思っています。なぜあのように美しい世界だったのか、を考える価値は高いと思います。

実は、こういう思いから逆算したのが民藝運動の重要性でした。現代人と比較して一番違うのは、その心だと思いますが、何が違いを生んでいるのでしょうか。

答えは神にあると思います。当時の芸術の中に、神の存在を感じないものはありません。神が描かれ、神が彫られ、それが市井に溢れていました。それは単に信仰としての物ではなく、現実としての存在を認識した上での物です。そして、当時の人々は、聖書に描かれているような世界の延長線上に住み、良くも悪くも神と共に生きていたようです。今では全く考えられない世界です。

私が言いたいのはこうです。民藝の精神を持つという事は、神を恐れ敬う行為の延長線上にあるということです。つまり、中世ヨーロッパでは、心に神を持つ人が溢れていたので、あのような美しい世界になったということです。逆に言えば、このような人が増えないと美しい世界は実現できないということです。それは今の時代が証明している通りです。

人は実にお金に弱い生き物です。なぜなら、それは人間の肉体的要求を満たすものとして直結しているからです。何にでも値段がついている現代においては尚更で、お金の量で気持ちが右往左往してしまいます。お金があれば気が大きくなり、なければ、小さくなります。

これは、当人の霊力が弱いから起こるの現象です。しかし、心に神を持つようになれば霊力が増し、この肉的要求に打ち勝つようになります。そして、神を知れば知るほど、振られなくなります。これが聖書の教えの一つであり、野獣と神を知る人とを分ける境界部分になります。

どちらの道に行くかは、個人個人の自由に任されています。但し主の道はとても厳しいです。しかし、この道を真っ直ぐに歩むものが増えれば、私は、民藝が栄え始めると確信しています。そしてそれは、約束の時を知らせる実であると思うのです。

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